パニック障害になりやすいのは、完璧主義で頑張り屋の人だという。
私は完璧主義は昔手放した、手放せたと思っていた。
しかし今思い返してみると、「一度決めたことから逃げ出した、挫折した」ということだった。
もちろん気持ちの葛藤などはいろいろあったが、高校生のとき、当時の自分にとっては大きな決断をしたのだ。
結果的に良かったものの、今思えばその挫折というか逃げ、は自分の身体と心を守るための選択だった。だから完璧主義を手放したわけでは全くないことに今回気づいた。
そう、私は完璧主義のまま。
何がどう完璧主義なのか、考えたこともあったがよくわからない。
一つ言えるのは今回の記事のタイトルにもあるよう、「思えば未来の不安ばかり、過去の栄光ばかり」なのだ。
未来の不安はわかる。誰にだってある。
漠然と将来が不安になったり、10分先の何かで不安になったり。要は起きてないにもかかわらず悪い想像をしてしまうことだ。
過去の栄光は、大抵は自慢だろう。
昔は運動神経がよかっただの、自分がその歳ぐらいの時はもっと仕事ができただの。
ただ私の場合はそうではない。
人ではなく、過去の自分と比べてしまうのだ。
1番無茶をしていた19〜20歳頃。その頃私はデザインの専門学生だった。
デザインの専門学生は課題が多い。毎日のようにデッサン、それから別の授業の課題と家に帰ってもやることが多く朝まで起きてることも多々あった。
また、深夜までバイトをしていた。カラオケで働いていたのだが23時半くらいまでのシフトだったため家に着くのは1時頃。
そしてネットでの交流を楽しんでいた。
SNSを通じて共通の趣味(漫画とか)で繋がった人たちとよく遊んでいた。いわゆるオフ会。その友達等数人は10年以上経った今でも遊んでいる。
仲良くなりたてで盛り上がり、朝までグループ通話をしながら絵を描いたり、課題をやったりしていた。
もちろんたくさん遊んで、泊まりに行ったり朝までカラオケでオールしたり、1時間睡眠で学校に行ったりと、とにかく「若いからできていた」ことだらけだった。
翌年もカラオケのバイトは辞めて前職でインターンシップとしてバイトし始め、社会人同様の仕事をしながら、学校に行き、課題と仕事と遊びの3つをこなすのに必死だったが楽しんでいた。
それぞれの進歩はともかく、それくらい「無茶」ができた。
もちろん続けていくうちにガタがきて、だんだんと体の弱い今になってしまったのだが、その記憶があるからこそ、仕事と趣味の両立ぐらいできるだろう、という考え方になってしまう。
何か大変なことがあっても、「前さらにアレも加えた状態でこなしたことあったし大丈夫だろう」と思ってしまう。
現在の体調や心の様子、環境は、前とは全く違うのに。
以前できたことは今もできると、経験値に縛られて自分を過信してる、いや、過信しすぎてるのだ。
そのせいで、今回みたいに、どこかで歯車が狂い、一気に崩れてダメになる。
体調が思い切り崩れるまで体のサインにも、見て見ぬふりをしてきていたのだと、体を壊してから気づく。
まったくもって、自分に反省する点が多い。
人と比べて「あの人はココまでできるのに、どうして私はできないんだろう」というような落ち込み方はあまりしていない。
自分でいうのもアレだが、ジャンルによっては興味があまり沸かない(どうでもいい)のと、そこそこなんでもそつなくこなせるからだ。
相手のレベルが上すぎるとただただ尊敬に変わるし、あまり能力の部分で人と比べて対抗心を燃やすことはない。
あるとすれば、男性に対して女性だからといって下に見られたくないという理由で張り合ってしまうことが多いのだが、それはまた別の理由があるので今回は端折る。
ちなみに美容とかオシャレでは、キレイになりたい、とか思うことはあるものの、自分の中でそのためにいろんな努力をして力を入れてるわけではないので、何もしてない自分が他人を見て羨むこともない。羨むことはあっても妬むことはない、というべきだろうか。
「いいな〜肌綺麗で(と言いつつ、思ってはいても心底羨んでいるわけでない)」みたいな。
自分が努力していることで、努力をしてない人が自分を超えていったら悔しいのだとは思うが。
話が逸れたが、
過去にこなせたこと、できたことで「あの時できたんだから今もっとできないと」とならずに、素直に「あの時の自分すごかった、頑張ってた」で「今」と切り離したいと思う。
そうすることで、できなかった「今」を責めることがないし、その時々の体調や環境で自分を見ることができるようになるのではないだろうか。
大事なのは未来でも過去でもない。
いつでも今ココなんだと、胸に刻んでおきたい。
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